幸せの定義にもよるが、私は全員が幸せになることは絶対に不可能だと確信している。

何故なら多くの人が相対的に物事を捉えるようになってしまっているからである。

皆が皆、生きていく過程で必然的に「他者と比べて〇〇を持っている」「他者と比べて〇〇が優れている」というのが幸せだと感じるように洗脳されてしまう。

この日本という国において、たとえ3食食べ物が揃っていても、家があり行く学校があり仕事があったとしても、多くの者がすぐに何かの要因で簡単に不幸だと感じてしまう。

これは周りの「何かを持っている」や「自分は○○が足りない」ばかりに目が行き、既に得ている物、今持っている物の貴重さを忘れてしまうからである。

もしあなたが余命1ヶ月の患者になれば激しく憤りを覚え不公平さを感じるだろうが、これがもし人類全員が余命1ヶ月の患者になれば怒りも収まるだろう。

逆に今あなたの目の前に超理想の異性が現れたとしても、周りの人間にも同じその異性が現れていたら、一気に冷めてしまうだろう。

相対的思考の輪から逃れられないためである。

そして、たとえその異性がもしあなた一人だけに現れたとしても行き着く結果は同じである。

冷めてしまう。

幸福は時間を重ねるごとに普通となり、またすぐに何かを求め葛藤を起こすからである。


人は絶え間なく枯渇し、際限のない快楽を求め続ける。
  
自分から見て「持っていない者」は見下す対象となるか見えなくなるかの二択である。

周りを見て常に何かを求め、苦しむのが人間の常である。


たしかにこの世は有限な物に満ちている。

お金。他人から1円でも多く奪い増やしていくもの。有限である。

時間。力を持つ者が時間をより多く手に入れ、その時間で更に時間を生みだす。有限である。

異性。優れた容姿や性格を持つ者は希少であり、皆がその希少を求め奪い合う。有限である。

情緒。人は常に心が通う存在を求め続けている。そんな存在も有限である。

しかしこの有限な物を全員が奪い合うとどうなるか。

当然、全員が幸せになる世の中は絶対に実現しない。


この思考の原因は他人から奪わなければ得ることができないという社会システムにも問題がある。

教育という場で数値化が始まり、受験、社会経験を経ればその競争、思考の輪から逃れられない。


こんな世の中で幸せになる方法は終わらない欲望・渇き続ける喉をひたすら満たしていく道か、「足る」を知り欲望をコントロールしていくかの二種類の方法しかない。

多くの者は前者を選ぶだろう。しかしそれは海水をひたすら飲むようなものである。

飲めば飲むほどまた多くの海水を飲み、また渇いてしまう。

ある程度の幸せには到達できるのかもしれないが、真の幸福は後者にあるのだと思う。


私は勿論後者を選ぶ。


だから今日の晩、私は吉野家のチーズ牛丼をベランダで食べるだけで感動し、涙を流すことができたのだ。

味の一つ一つの食感に注意し、牛やお米に感謝しながら味を楽しんだ。

重要なのは自分がどう感じるかが重要なのだ。

私の舌には超絶品の料理に感じた。


また窓から見える景色は最高だった。自然の木々の不規則な美しい姿は決して人間には再現できない。

夏の兆しを感じるような青々とした葉。非常にエネルギーを感じた。


これが毎日業務に終われてお金を常に追うような生活をしている人だったら、何も感じないだろう。

私は彼らが幸せを求めて四苦八苦するうちに、既に大きな幸せを得ているのである。


幸せかどうかを決めるのは自分自身である。

世界は暗黒だと思えば暗黒に見えてしまうし、天国極楽パラダイスだと思えば天国極楽パラダイスになるのである。


ちなみに私の口には、今日食べた牛丼は天国極楽パラダイスチーズ牛丼味だった。
  



私ほど幸せな者はいない!!


と思って今日を生きよう。









幸せ、見失っていませんか。


幸せは自分自身と、チーズ牛丼の中にある。


AC。

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