ワキガと呼ばれる病気をご存知だろうか。

皮膚のアポクリン腺から分泌される汗が原因で強い臭いを発する体質のことでその精神的苦痛は計り知れない。

日本人の場合は軽度のものを含めると全体の10~15%がワキガらしい。

私はワキガでは無いが、その病を初めて知ったのは19歳の時だった。


あれは大学1年生の時だった。

大学デビュー・・・なんか考えてもおらず、学校に行って一人で授業を受けて帰るだけの毎日。

サークルにも部活にも所属せず何も楽しいことは無く陰鬱とした日々を過ごしていた。


とりあえず彼女が欲しかった。大学に行けば何の努力もせず彼女ができると思っていた。

しかし彼女どころか女性と話す機会は食堂のおばちゃんしか無かった。

こじれにこじれて毎日学生の為に働く食堂のおばちゃんに好意を抱き始めてすらいた。


そんなある日、大講義室での授業を受けている時に一人の女子生徒が目に映った。

前から四番目の席なのにも関わらずじっと下を向いている黒髪長髪の女性。


私はそれを見て妙だと思った。

ほとんどの学生は後ろの席に座るのに彼女はただ一人前の方に座っている。

しかしそれといって授業に熱心な様子もない。

私は毎回の授業でその姿を見続けるうちに、彼女のことがだんだんと気になっていった。


そして何回かの授業の後、彼女の顔を近くで見るタイミングがあった。

すれ違いざま見た彼女の顔は、美人とは言えないが整っているなという印象を持った。

しかし一方で暗く幸の薄そうな印象もあった。


私は好意こそ持たなかったが彼女と一度話してみたいと思うようになった。

あわよくば友達にでもなって大学生活を一緒にすごせれば良いと思ったからである。


そしてそのチャンスは以外と早く訪れた。


彼女の名前を貞子としよう。(オーラが似ているため)


貞子はその日授業終わりに食堂で一人でご飯を食べていた。

食堂は混雑していたが、何故か彼女の周りの席はスカスカだったので私は斜め前に座ることができた。

そして彼女は授業の課題プリントを持ちながら食事をしていたので、私も同じプリントを出して自然に授業に関する会話ができたという訳だ。

かなり緊張したが、高3の時にいきなり告白して降られた経験を活かして話しかけることができた。


貞子は、「なんだこいつ」という驚いた眼で私を見た後、数秒の沈黙の後に課題について教えてくれた。

私も必死にコミュ障ながら話し続けると、また「なんだこいつ」という眼で私を見た後に喋ってくれた。


話を聞いてみると驚くことに彼女は二留もしている24歳の学生だった。

真面目そうに見えたが、ただの不真面目な人だった。


30分程コミュ障ながらに私が頑張って会話したところ、また課題教えて下さいねということでラインを交換した。

貞子はよく分からない人変だと思ったが、私は大学で初めて異性の友達ができたことに感動した。


そしてまた次の週。

貞子を見つけまた食堂で食事をすることになった。

食堂はいつも通り混雑していたが、なぜか貞子の周りにだけ人がいないのですぐに分かった。


私は軽く挨拶して180円のかけうどんを目の前で食べていた。

そしてまたコミュ障ながらも貞子にまた語りかけていた。

彼女は前とは違って「あ、またこいつか」という眼をしながらスイートポテトを食べていた。


一緒に食事をしていて5分くらいたった時だったろうか。


何故か蕎麦が酸っぱくて苦いような味がした。



私は「おかしいな、腐ってるのかな」と思いながらうどんを食べ進めていた。

しかし一向にその味は変わらない。

私は鼻炎であまり味は感じない筈なのに、何故かこの不快な酸っぱさと苦みは敏感に感じていた。

しばらくしてその味がうどんではなく何かの臭いだと気が付いた。


眼をつむり鼻を澄ましてみると次には強い加齢臭のようなものを感じた。

突然の臭いに一瞬吐きそうになり、むせて右鼻から蕎麦が飛び出た。

そしてその日は貞子との会話をそつなくこなし、家に帰った。

私はその時の現象を、近くに座っていた大学教授のせいだと納得させて寝た。


しかし次の週、その予想は外れた。

それはとても暑い日だった。

先週のように食堂に行ったが先週とは違うことが1つあった。

その異様な光景を見て私はすぐには理解ができなかった。


中心にいる貞子を避けるように、食堂に大きな空席の円ができていた。



それはあきらかに貞子を避けて多くの学生が食事をしていた。


おかしい。なんだこれは。


そう思いながら私はいつもの180円のかけうどんをお盆に乗せて貞子の方へ向かった。

一瞬躊躇はしたものの友達だと思っていたので近くに行くことに迷いはなかった。


10m。そのあたりから座る学生の数がまばらになっている。


5m。もう完全に貞子の周りには着席して食べる者はいない。このあたりから先週嗅いだあの臭いが漂っていた。


3m。私は貞子を見ながら臭いの正体が彼女だと気がついた。


強烈な臭いだった。

酸味と苦みとアンモニアを混ぜたような喉の奥に突き刺すような臭い。

立っているだけで鼻の裏にアッパーをされているような突き刺すような臭い。

加湿器におしっこと酢とゴーヤ汁を入れて稼働させたらこうなるだろうという臭い。


私はそれと同時に刺さるような周囲の目を感じたが、ここで「くさいので他の場所で食べます」と言うわけにもいかない。

最初に話しかけたのはこっちだし、何より友達を無視するのはおかしいと思ったからだ。

私は席について完全に口呼吸をし、速攻で食べて「今日は急いでるから!」で乗り切るつもりだった。

彼女に決して無礼な態度をとってはならないと必死に周りの目を気にしながらも食事と会話を進めていった。


私は苦しさをを感じながらも理不尽さと怒りも同時に感じていた。


「神よ、何故あなたはこの女性にこんな試練を与えたのだ。」


これはどんな困難よりも重い、とても残酷なハンディなのではないか。

チビデブハゲ、そんなもので自虐するような人間では彼女の苦痛を理解することは到底できない。

彼女は今までこの臭いのせいで逆境にぶつかってきたのだろうと思うと酷くショックを受けた。

しかしその一方で彼女の目の前0.5mくらいの至近距離で食事をする私は、その苦しみに決して寄り添うことができないとも肉体的に感じていた。

(一緒にいて苦しい。呼吸ができなくなる。口呼吸しながらうどんを食うと呼吸困難になる。逃げたい。苦しい。臭い。悲しい。周りの目が痛い。悲しい。臭い。)


・・・俺には、どうすることもできない。


そして私はなんとか彼女にその想いを悟られることなくうどんを完食した。

先週通りたわいもない会話をして、来週から留学に行くと嘘をついた。


そして私は彼女と二度と会話することは無かった。

大学で初めてできた友達に嘘をついた。


自分の無責任さ、クズさ、世界の理不尽さ、彼女の人生を考えて軽く鬱になった。

そして自分もいじめの傍観者側のような人間だったのだと悟った。


貞子さん、あの時嘘をついた私を許してください。

私はあの時どうすれば良かったのだろうか。


そしてあの臭いを超える臭いを、未だに嗅いだことが無い。